2012年6月30日土曜日



 食肉目ネコ科の哺乳類。体はしなやかで、足裏に肉球があり、爪を鞘に収めることができる。口のまわりや目の上に長いひげがあり、感覚器として重要。舌はとげ状の突起で覆われ、ざらつく。夜行性で、目に反射板状の構造をもち、光って見える。瞳孔は暗所で円形に開き、明所で細く狭くなる。単独で暮らす。家猫はネズミ駆除のためリビアヤマネコやヨーロッパヤマネコなどから馴化(じゅんか)されたもの。起源はエジプト王朝時代にさかのぼり、さまざまな品種がある。日本ネコは中国から渡来したといわれ、毛色により烏猫・虎猫・三毛猫・斑(ぶち)猫などという。ネコ科にはヤマネコトラヒョウライオンチーターなども含まれる。


(goo辞書より)


私は猫が嫌いだった。
近づくと猫アレルギーという反応を引き起こしてしまうし、
サザエさんのイメージが強いからであろうか、いたずらをしたり、魚を加えて逃げる猫より
忠実で賢い犬派であった。




先日、庭園巡り趣味に一環で浜離宮恩賜庭園に行ったのだが、
猫を見た。
あの都立の庭園、しかも芝離宮とは比べ物にならないくらい大きな庭園を
いかにも「我のものである」というように猫は散歩していた。
中には日向ぼっこをしているものもいた。


私はそのとき、やっぱり猫は俺様志向だ、嫌いだ、と確信した。
人間が「立ち入り禁止」と書いてあって入れない中に
自分は入れるぜ、糞もできるぜ、というやつはいらっとする。


しかし「嫌い」という感情の中には必ず「嫉妬」という感情が隠れている。
猫に対して私は嫉妬しているのか。


「猫」という存在に嫉妬したわけではないことに留意したい。
いや、もしかしたら猫のように生きたいと考える日が来るかもしれないが、
今はまだ人間でよいと思っている。


では何に嫉妬したのか。
それは猫の自由さだと思った。




私の観察した猫の行動というのは、一見無礼な行動である。
しかし
無礼さと自由さというものは表裏一体だ。


その行動の仕方次第で捉え方が変わってくる。
周りの目を気にしない、他人の評価を気にしない
こんな自由さを持っている人を尊敬する。


そしてその行動が無礼なものに見えないように小さな配慮をしている、
そんな自由人を尊敬する。


「集団行動」が大好きな日本社会の中でこんな人はたくさんはいない。
ただひとつ、自由を手に入れる方法としては
まず無礼なことをしてみる。
無礼なことをしても可愛さで許されるような猫の能力を手に入れる。
無礼ではなくて自由であることを主張する。


しかし、自由であることを他人に示すようでは、やはり人の目を気にしている。
結局自由ではない。
無礼と自由。
猫を少し尊敬し始めた。















2012年6月27日水曜日


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亀が太陽に向かって首をのばしていた。私と同じように日焼けをしたいのだろうと思った。
亀と同じことをしているはずなのに、なんだか亀とは違う時間を生きているように感じた。

亀の寿命は平均20ー30年。長い亀では170年くらい生きる物もいる。
長寿の亀の秘密はきっとその亀ののんびりさとマイペースさだろう。

「ゆとり」という言葉が流行した時期がある。
人間のいうこの「ゆとり」は、亀の生き方のようなものをさすのだろうか。

人間のいう「ゆとり」には対照に「忙しさ」というものがあり、それをさけるため、または脱却するために
反語として使われている言葉だ。これは、亀と人間のゆとりのあり方の大きな違いだ。
なぜなら亀は、ゆとりのある生活しか送ったことがなく、彼は自らの生活がゆとりのある生活だなんて
思っていないからだ。
だから亀と同じ行動をしていても、同じ空気が私と亀の間には流れていて
いかにも異なる空間を生きているように感じたのだ。

だからといって、人間も亀のように忙しさなんて存在していたことさえ忘れて、ゆとりのある生活を送ろう!
といっているわけではない。
人間は、ゆとりと忙しさという二つの相反する生活方法を知っている。
だからこそ、ゆとりの大切さを知ることができるというポジティブな面もある。

しかし、亀の生活の方が我々の「ゆとり」ある生活よりも素敵なものに見えてしまうのは、
いかに我々人間が純粋なゆとりのある生活をしようとしても、
この純粋にゆとりのある生活を手に入れられるのは限られた人間であり、他の人はただ「ゆとり」ある生活をしているフリをしているだけであるからだ。

「ゆとり」を持つということに罪悪感を抱いたことはないだろうか。
いつも何かやることがあるのに、その時間を割いて「ゆとり」の為に時間を使ってしまい後から後悔したり。
周りの空気が「ゆとりを持とう!」となっているから、
触発されて「ゆとり」に興味を持ってぼーっとしてみたが、なんか何もゆとりを持てずに終わってしまったり。


これは全部純粋なゆとりではなくて「ゆとりのフリ」だ。
私もこのゆとりのフリをしてきたことが何度もある。
亀の長寿の秘訣は、のんびりさとマイペースさだ。
このマイペースさが私には欠けていた。

純粋なゆとりを手に入れた今、もう一度亀を見に行った。
亀はまた日焼けをしていた。
私もそれに習った。
同じ時を過ごしているように感じたが、友達の時計を見るそぶりとともに
やっぱり異質な空間にいることを知らされた。

亀と一緒に日を見て思う。
人間は普通の亀より長生きするのに、なぜこうもせかせかしているのだろう。
亀の生き方を、時間を知ってしまった人間は誰もまねできないだろうのか。


2012年6月24日日曜日

旧芝離宮恩賜庭園

旧芝離宮恩賜庭園


小石川後楽園と共に、今東京に残る江戸初期の大名庭園の一つです。回遊式泉水庭園の特徴をよくあらわした庭園で、池を中心とした庭園の区画や石の配置は、非常に優れています。
 明暦(1655~1658年)の頃に海面を埋め立てた土地を、延宝6年(1678年)に老中・大久保忠朝が4代将軍家綱から拝領しました。
 忠朝は屋敷を建てるにあたり、藩地の小田原から庭師を呼び庭園を造ったと言われています。庭園は「楽壽園」と呼ばれていました。

庭園は、幾人かの所有者を経たのち、幕末頃は紀州徳川家の芝御屋敷となりました。明治4年には有栖川宮家の所有となり、同8年に宮内省が買上げ、翌9年に芝離宮となりました。離宮は、大正12年の関東大震災の際に建物や樹木に大変な被害を受けました。
 翌年の大正13年1月には、皇太子(昭和天皇)のご成婚記念として東京市に下賜され、園地の復旧と整備を施し、同年4月に一般公開しました。また、昭和54年6月には、文化財保護法による国の「名勝」に指定されました。



(東京都公園協会より引用)


梅雨の時期の晴れた土曜日。混んでいる電車から浜松町へおりて庭園に入る。iPodとサングラスをとり静寂の中に突入する。庭園にはほとんど人がいない。安心した反面、少し寂しくもなる。
東京のオフィス街にあるとは思えないほどの大きさで、ひっそり、しかし荘厳に構える庭園。


写真を撮るときに気づいたのは、後ろの大きなビル群だ。
その庭園の存在の仕方が今の日本のあるべき姿を映し出しているようであった。
古き良きものを温存しながら、新しい物を取り入れる。この古いものと新しいもののコントラストによって、また新しい風景を手に入れる。


戦後日本が行ってきたことは、私は間違っていないと思う。
ただ、最近感じることは、日本は新しいもの、西洋のものを取り入れようとしすぎて
古き良きものを捨ててしまっているのではないかということだ。
それは西洋と日本の対比だけではない。
アナログとデジタルの対比でもあるのだ。


ディズニーランドに象徴されるように、完璧な世界を作り上げ、外の背景を全て切り取ってしまうのではなく、外の風景も背景として取り入れる。そして自分が持っているものを融合させる。
それが島の国日本だからできることで、日本の想像力の源泉なのではないだろうか。


右翼ではないが、日本には日本の良さがあるということは誰も日本人が認識していることだ。
だから西洋の良さと日本の良さを組み合わせる。
伝統的なものと新しく開発された物を組み合わせる。


庭園のように、美しい庭園の上には壮大に存在するビル群。この一見奇妙に思えるような風景が、今の日本で重要視されるべきではないのか。


たまたまラストサムライを見て、思わず感動してしまった。
その中の台詞の一つ。
we cannot forget who we are and where we come from.


もしかしたら客観的に日本を見る人には、
何が日本に今必要なのかがわかっているのかもしれない。










雀が水を飲み、飛び立つ姿。
鯉が食べものを待ち、口をぱくぱくする。
人が風景のきれいさに息をのむ姿。


東京で何度この風景を見ただろう。
庭園は、東京の真ん中に何個も存在する。


庭園めぐり。
古き良きものを知りたい時も、自分を考える時間として物思いにふけるときも
ぜひ庭園に行ってみてもらいたい。

2012年6月23日土曜日

カーテン






カーテン
1 窓を覆ったり、室内・屋内の空間を仕切ったりするためにつるす布。窓掛け。 2 舞台の幕。 3 お互いの交流・交通を遮る物。「鉄の―」
(goo辞書より引用)


今日ふと大学から見える外のオフィスを眺めていた。そこで気づいたことはオフィスにはカーテンがないということだ。最近の洋風の家にはカーテンがある。しかし、よく考えるとカーテンのあるオフィスは存在しない。


カーテンの役割は何だろう。
カーテンは日中は開けておくが、夜になると閉める。窓とは違う役割があるのだ。
それは目隠しという役割だ。外から中が見えないように覆っている。


だからオフィスにはカーテンがない。
情報開示が企業には求められ、カーテンは不要なのだ。
昨年の3.11による原発事故、オリンパス、AIJなどの多くの企業の不祥事の後から、オープンネスが重要視されている。


企業というのは、パブリックなもので、オープンであるべきだ。
一方で、私たち人間というのは、公私両方がある存在で、すべてを企業のようにオープンにする必要はない。


こんなことを考えていたら、おじさんのよく話す「化粧」の説教の話を思い浮かべた。電車の中で化粧する人が増えている中で、「恥ずかしくないのか!」と怒っているのである。そんなことを言われたら、女性としては「じゃあ君たちも下品な新聞を電車の中で堂々と読まないでほしい」と怒りたくなる。
しかし、この2つの言い分はどちらも「パブリックとプライベートを区別してほしい」と要求していることに他ならない。


つまり、このような話が起こるということは、最近の人間はカーテンを持たず、常に開きっ放しの企業のような存在になりつつあるということだ。


嘘をつかない誠実さ、というのは人間としても大切だ。しかし、何もかもをオープンにすること、カーテンを持たず、公私を混同してしまうことはいいことなのだろうか。


今、世界がbusinessという方向に流れ、マネーによって世界が動いている。ビジネスを学ぶ私たちには持ってこいの時代である。
しかし、この世界のビジネス化が企業と自分という人間の境目をわからなくさせていると思う。マネーやビジネスはあくまでも、私たちの生活するためのツールであり、プレーヤーだ。自分たちがその中に入って駒の一つとして動いてはいけない。


パブリックとプライベートを区別する。
人間が人間としての尊厳を失わないためにも、
心の中にカーテンを持とう。



2012年6月21日木曜日

マカロニ



マカロニ
《(イタリア)maccheroniから》イタリアの代表的なパスタ。小麦粉を温湯で固く練り、円筒に入れて突
き出し、切って乾燥したもの。管状のほか糸状や貝殻形・花形などのものもある。
goo辞書によるとマカロニとは、こう説明がされている。


マカロニはよく考えると不思議な食べ物である。
ただ小麦をねって、丸くして筒抜けにしてのっぽにした味のない食べ物だが、世界中で売っていて有名だ。

私は特に、アメリカでよく食べていたマカロニandチーズのマカロニは大好きだ。
そして何より、マカロニの性格が大好きだ。

マカロニは欲張らない。自分を主張しない。
そしてみんなから愛され、それぞれのマカロニがいろんな姿に変わっていく。
マカロニandチーズのマカロニはチーズという素朴な味に変化するが、
一流シェフの手にかかると、とっても高級なマカロニにもなる。

きっとマカロニは穴からのぞいている。
乾燥したときから茹でられている時までずっと、自分が次はどのようなマカロニになるべきなのか、
タイミングを見計らっているのだ。

皆が主張して、貪欲に生きるこの時代に、
マカロニ人間がいると心にゆとりができる。

いつも何かを目指してがんばることも大切だ。Going my wayも大切かもしれない。
でも、焦らなくていい。
マカロニはマカロニで存在価値があるのだ。
そして自分のタイミングで姿を変えればいいのだ。