2012年7月17日火曜日

今日


今日
     今過ごしている、この日。本日。こんにち。「選挙は―行われる」
     その日と同じ日付や曜日の日。「来年の―会いましょう」
今日とは何だろう。
今日は、夜の12時になれば終わってしまう。
今、次の夜の1時を考えれば、それは「明日」だが、
実際に夜の1時になれば、それは「今日」になる。

今日とは抽象的な言葉だが、とても緊急を要する、
不思議と具体的に感じ取ってしまう言葉だ。

ガンジーが言う。
Live today as if you die tomorrow.
毎日毎日、大切に生きろという意味だ。

しかし毎日がtodayであり、tomorrowは決して私たちにはやってこない。
明日は存在しないのだ。

そう考えると、ガンジーの言葉は
今日を生きる。明日には死んでいるかのように。
でも明日はない。死ぬことはない。
だからこそ、今日を生きるのだ。
今日という日が毎日続くために。

今日を生きることが必死だった時代は、
毎日精一杯生きて、やり残しがない用に生きるという言葉が出てきた。

今の日本は、幸福なことに、突然の事故や病気がない限り、明日が存在する国だ。
だからといって精一杯生きる必要はなくなったのだろうか。
私は違うと思う。
明日という今日が存在するから、その明日という今日を楽しむために、
続けるために、今日を精一杯生きる必要があるのだ。

だから今の人は昔の人より希望を持つべきだ。
大きな夢と目標を。

さて新しい今日がやってくるまであと一時間半。
残り時間も精一杯生きよう。
新しい今日のために。

2012年7月11日水曜日

勉強


勉強


     学問や技芸などを学ぶこと。「徹夜で―する」「音楽を―する」
     物事に精を出すこと。努力すること。
    「何時までもこんな事に―するでもなし」〈福沢福翁自伝
     経験を積むこと。「今度の仕事はいい―になった」
     商人が商品を値引きして安く売ること。
    (goo辞書より)
日本の大学生にとって大変な季節がやってきた。
日本の大学生ほぼ全員が真面目に勉強をする年2回のイベント、試験だ。
ここまでかというくらい、皆の顔つきが変わり、授業の出席人数も増え、
学校がにぎやかになる。

今日は勉強とは何かを考えてみたい。

中学校2年生の時に、国語の先生がテスト前に言った言葉を今でも私は忘れない。
「勉強とは強いて勉めると書くのです。だから辛いのは当たり前です。」

なるほど。中学生のときから覚えている言葉はこの言葉くらいだろう。

しかし、大学までいると、勉強そのものが好きな人間もいる。
私ももしかしたらその一人かもしれない。
ドMなのだろうか。自分を強いることが好きなのか。

いや、そうではない。
勉強好きの理由も人それぞれだろう。

自分が勉強ができるから、単に知的好奇心が強いから、将来につながるから、などなど。
しかし私が最近感じた勉強をする理由、もしくは勉強が好きな理由は
価値観を広げることができるということだ。

グローバル社会において、多様な価値観に触れることが大切だと最近よく言われる。
もちろん外国に行くことはもちろんだが、
お金と時間のコストがかかることもある。

そんな中で手っ取り早いのが勉強だ。

勉強、少なくとも大学レベルでの学問というのは、
先人の考え方や理論、歴史など今までの生きた人々の価値観の宝庫だ。

そもそもこの世の中で価値観が大切と言われるのは、
自分だけの価値観では新しいものを生み出せないからだ。

イノベーションやクリエイティビティというのは、全く新しいものではない。
常に、今までのものの組み合わせで作られたものである。

だから、価値観や今までの人の考え方を知ることは大切なのだ。
そのために勉強というドMな行為が大切になり、
自分の引き出しの中に知識というものを貯めておくことが必要なのだ。


日本の大学生は勉強しないと言われる。
これは、日本の大学生の一人として、事実だと感じる。

勉強しなくなった理由(そもそも昔はしていたのかもわからないが)が
教育の仕方にあることは疑う余地はない。
(例えば、
 欧州は教育を受けるということは、国や世界が自分に教育を受けさせてくれたと考え、
 必ず将来、国に対して何かしらの形でgive backするのが当たり前である)

しかし、このままだとこの国では新しいものが生み出されなくなってしまう。
日本の強みと言われた勤勉さはどこにいってしまったのだろう。

モラトリアムとして使う4年間も重要かもしれない。
しかし日本の将来を考えたとき、どちらが大切なのだろうか。

私は、4年間強いて勉めることを選ぶだろう。




2012年7月4日水曜日

アクセサリー

アクセサリー

     装飾品。衣服を引き立てるための装身具の類。ブローチやネックレスなど。
     機械類の本体以外の付属品。または別売りの関連商品。「カー―」
    (goo辞書)

日本とは不思議な国である。
大学に行けば、皆がヴィトンのバッグを持って
新宿に行けば、そこでも皆がヴィトンのバッグを持って
年齢も所得も何も関係なく、皆がブランドバックを持っている。

こんな国は日本だけだ。

欧州ではこんなことはあり得ない。
しっかりとした階級制度が根付いていて
ブランドのものを持っている人は決まっている。
彼らにとってブランドはシンボルであり、自分の社会的地位を示すものである。

日本でもブランドはシンボルかもしれない、
しかし、自分の育ちや昔の階級を示すものではない。
だからヴィトンの50%の売上は日本人が占めているのだ。




アクセサリーとは、装飾品だ。体という本体の付属品である。
非自分のものをなぜわざわざ人々は体につけるのだろう。

アクセサリーは自分を良く見せる。
きれいに見せる。
昔流行った本のように「人は見た目で9割決まる」のだ。

しかしそこに虚無感はないのだろうか。
一つは、アクセサリーを全て取り去ったときに残るのが本当の自分だということ。
もう一つは、アクセサリーはお金さえあれば手に入ってしまうということだ。

前者は気づいている人がいるかもしれない。
しかし大きな問題は後者だ。

アクセサリーは自分をよく見せるかもしれないが、
それはお金さえあれば手に入る。
自分だけが手に入れることのできるものではない。

確かに努力をしてお金を貯めてやっと手に入れることは虚無感は感じないかもしれない。
しかし、一生懸命貯めたお金を、誰でも買えるようなものに投資するのか。

この二つの虚無感は、
どちらもアクセサリーによって自らを奴隷化していることから始まっているのではないか。

人間は自分で自分の価値を最終的には見つける。
しかし、どんな価値を見つけたとしても
それは値段以上のものだ。

アクセサリーをつけ、それを見せびらかしたときから
それは自らに値段を付けていることになる。

これはアクセサリーという物理的なものだけではない。
学歴、就職先、年収、肩書きも全てアクセサリーだ。

アクセサリーが全て悪い訳ではない。
私もいくつもつけている。

しかし、それはアクセサリーをつけることによって
「姿勢が変わる」ということを求めているからである。
母親にもらった指輪をつけることで
「頑張る」ことを忘れないためだ。

少なくともそう願いたい。
アクセサリーから自由でありたい。
自分というブランドを作ろう。

日本人はせっかく誰でもがブランドを身につけられる。
「自分」というブランドを身につけよう。