2012年8月19日日曜日

ガールズ

ガールズ:Girls

1 女の子, 少女;未婚の若い女性(若い女性でもgirlと呼ばれるのをきらい, 自分をwomanと呼ぶ人が多い;特に北米でこの傾向が強い)
(Apple辞書より)

今日、飛行機の中で邦画『ガール』を見た。着陸とエンディングが重なってしまって、結末は見れなかった。

最初は、なんてB級映画!と思いながらも洋画コメディに飽きてしまったので見ていた。まあ簡単に言えば、アラサーと若干アラフォーの女性が集まって、それぞれが子育て、仕事、結婚、恋愛など問題を持ってるという内容だった。
でもナレーションで言われる言葉、ガール、女性、女子についての映画での定義がぐっときた。

女性は、フェミニズムとともに様々な権利を獲得してきた。今や投票はもちろん、管理職に就くことだってできる。これは20年前は考えられなかったことだ。
今の私たちには、なんでもできる。どんな夢だって抱くことができる。

でも、選択肢が増えたことによって、仕事、結婚、子育て...チョイスがどんどん増えてきた。これらのコンビネーションということもあり得る。

男の人生より、女の人生の方がよっぽど複雑なのだ。
むかしは、女は結婚して嫁入りして子供を産んで、一人前に育てることが女の役割と決まっていた。

だから、私たちは、常に悩み、不安を抱える。あっちの道の方が良かったのではないか、いや、こっちの道でやっぱり良かったのだ、あの人と結婚していれば、あそこで仕事を選んでいれば...悩み始めたら、後悔し始めたらきりがない。

私は、女性がどんどん社会進出して、どんどん昇進していく社会を望んでいた。
しかし、時代がそのように流れていくことが、全ての女性にとってプラスに作用するのだろうか。

そんなことを考えることのできた映画だった。
ガールとは少女のこと。いつまでも女は若くいたいものだ。
年を取れば取るほど、後戻りができなくなる。やり直しもきかなくなる。

私は、いつまでもガールのように夢を持ちながら、生きていくことはとても素敵なことだと思う。

2012年7月17日火曜日

今日


今日
     今過ごしている、この日。本日。こんにち。「選挙は―行われる」
     その日と同じ日付や曜日の日。「来年の―会いましょう」
今日とは何だろう。
今日は、夜の12時になれば終わってしまう。
今、次の夜の1時を考えれば、それは「明日」だが、
実際に夜の1時になれば、それは「今日」になる。

今日とは抽象的な言葉だが、とても緊急を要する、
不思議と具体的に感じ取ってしまう言葉だ。

ガンジーが言う。
Live today as if you die tomorrow.
毎日毎日、大切に生きろという意味だ。

しかし毎日がtodayであり、tomorrowは決して私たちにはやってこない。
明日は存在しないのだ。

そう考えると、ガンジーの言葉は
今日を生きる。明日には死んでいるかのように。
でも明日はない。死ぬことはない。
だからこそ、今日を生きるのだ。
今日という日が毎日続くために。

今日を生きることが必死だった時代は、
毎日精一杯生きて、やり残しがない用に生きるという言葉が出てきた。

今の日本は、幸福なことに、突然の事故や病気がない限り、明日が存在する国だ。
だからといって精一杯生きる必要はなくなったのだろうか。
私は違うと思う。
明日という今日が存在するから、その明日という今日を楽しむために、
続けるために、今日を精一杯生きる必要があるのだ。

だから今の人は昔の人より希望を持つべきだ。
大きな夢と目標を。

さて新しい今日がやってくるまであと一時間半。
残り時間も精一杯生きよう。
新しい今日のために。

2012年7月11日水曜日

勉強


勉強


     学問や技芸などを学ぶこと。「徹夜で―する」「音楽を―する」
     物事に精を出すこと。努力すること。
    「何時までもこんな事に―するでもなし」〈福沢福翁自伝
     経験を積むこと。「今度の仕事はいい―になった」
     商人が商品を値引きして安く売ること。
    (goo辞書より)
日本の大学生にとって大変な季節がやってきた。
日本の大学生ほぼ全員が真面目に勉強をする年2回のイベント、試験だ。
ここまでかというくらい、皆の顔つきが変わり、授業の出席人数も増え、
学校がにぎやかになる。

今日は勉強とは何かを考えてみたい。

中学校2年生の時に、国語の先生がテスト前に言った言葉を今でも私は忘れない。
「勉強とは強いて勉めると書くのです。だから辛いのは当たり前です。」

なるほど。中学生のときから覚えている言葉はこの言葉くらいだろう。

しかし、大学までいると、勉強そのものが好きな人間もいる。
私ももしかしたらその一人かもしれない。
ドMなのだろうか。自分を強いることが好きなのか。

いや、そうではない。
勉強好きの理由も人それぞれだろう。

自分が勉強ができるから、単に知的好奇心が強いから、将来につながるから、などなど。
しかし私が最近感じた勉強をする理由、もしくは勉強が好きな理由は
価値観を広げることができるということだ。

グローバル社会において、多様な価値観に触れることが大切だと最近よく言われる。
もちろん外国に行くことはもちろんだが、
お金と時間のコストがかかることもある。

そんな中で手っ取り早いのが勉強だ。

勉強、少なくとも大学レベルでの学問というのは、
先人の考え方や理論、歴史など今までの生きた人々の価値観の宝庫だ。

そもそもこの世の中で価値観が大切と言われるのは、
自分だけの価値観では新しいものを生み出せないからだ。

イノベーションやクリエイティビティというのは、全く新しいものではない。
常に、今までのものの組み合わせで作られたものである。

だから、価値観や今までの人の考え方を知ることは大切なのだ。
そのために勉強というドMな行為が大切になり、
自分の引き出しの中に知識というものを貯めておくことが必要なのだ。


日本の大学生は勉強しないと言われる。
これは、日本の大学生の一人として、事実だと感じる。

勉強しなくなった理由(そもそも昔はしていたのかもわからないが)が
教育の仕方にあることは疑う余地はない。
(例えば、
 欧州は教育を受けるということは、国や世界が自分に教育を受けさせてくれたと考え、
 必ず将来、国に対して何かしらの形でgive backするのが当たり前である)

しかし、このままだとこの国では新しいものが生み出されなくなってしまう。
日本の強みと言われた勤勉さはどこにいってしまったのだろう。

モラトリアムとして使う4年間も重要かもしれない。
しかし日本の将来を考えたとき、どちらが大切なのだろうか。

私は、4年間強いて勉めることを選ぶだろう。




2012年7月4日水曜日

アクセサリー

アクセサリー

     装飾品。衣服を引き立てるための装身具の類。ブローチやネックレスなど。
     機械類の本体以外の付属品。または別売りの関連商品。「カー―」
    (goo辞書)

日本とは不思議な国である。
大学に行けば、皆がヴィトンのバッグを持って
新宿に行けば、そこでも皆がヴィトンのバッグを持って
年齢も所得も何も関係なく、皆がブランドバックを持っている。

こんな国は日本だけだ。

欧州ではこんなことはあり得ない。
しっかりとした階級制度が根付いていて
ブランドのものを持っている人は決まっている。
彼らにとってブランドはシンボルであり、自分の社会的地位を示すものである。

日本でもブランドはシンボルかもしれない、
しかし、自分の育ちや昔の階級を示すものではない。
だからヴィトンの50%の売上は日本人が占めているのだ。




アクセサリーとは、装飾品だ。体という本体の付属品である。
非自分のものをなぜわざわざ人々は体につけるのだろう。

アクセサリーは自分を良く見せる。
きれいに見せる。
昔流行った本のように「人は見た目で9割決まる」のだ。

しかしそこに虚無感はないのだろうか。
一つは、アクセサリーを全て取り去ったときに残るのが本当の自分だということ。
もう一つは、アクセサリーはお金さえあれば手に入ってしまうということだ。

前者は気づいている人がいるかもしれない。
しかし大きな問題は後者だ。

アクセサリーは自分をよく見せるかもしれないが、
それはお金さえあれば手に入る。
自分だけが手に入れることのできるものではない。

確かに努力をしてお金を貯めてやっと手に入れることは虚無感は感じないかもしれない。
しかし、一生懸命貯めたお金を、誰でも買えるようなものに投資するのか。

この二つの虚無感は、
どちらもアクセサリーによって自らを奴隷化していることから始まっているのではないか。

人間は自分で自分の価値を最終的には見つける。
しかし、どんな価値を見つけたとしても
それは値段以上のものだ。

アクセサリーをつけ、それを見せびらかしたときから
それは自らに値段を付けていることになる。

これはアクセサリーという物理的なものだけではない。
学歴、就職先、年収、肩書きも全てアクセサリーだ。

アクセサリーが全て悪い訳ではない。
私もいくつもつけている。

しかし、それはアクセサリーをつけることによって
「姿勢が変わる」ということを求めているからである。
母親にもらった指輪をつけることで
「頑張る」ことを忘れないためだ。

少なくともそう願いたい。
アクセサリーから自由でありたい。
自分というブランドを作ろう。

日本人はせっかく誰でもがブランドを身につけられる。
「自分」というブランドを身につけよう。


2012年6月30日土曜日



 食肉目ネコ科の哺乳類。体はしなやかで、足裏に肉球があり、爪を鞘に収めることができる。口のまわりや目の上に長いひげがあり、感覚器として重要。舌はとげ状の突起で覆われ、ざらつく。夜行性で、目に反射板状の構造をもち、光って見える。瞳孔は暗所で円形に開き、明所で細く狭くなる。単独で暮らす。家猫はネズミ駆除のためリビアヤマネコやヨーロッパヤマネコなどから馴化(じゅんか)されたもの。起源はエジプト王朝時代にさかのぼり、さまざまな品種がある。日本ネコは中国から渡来したといわれ、毛色により烏猫・虎猫・三毛猫・斑(ぶち)猫などという。ネコ科にはヤマネコトラヒョウライオンチーターなども含まれる。


(goo辞書より)


私は猫が嫌いだった。
近づくと猫アレルギーという反応を引き起こしてしまうし、
サザエさんのイメージが強いからであろうか、いたずらをしたり、魚を加えて逃げる猫より
忠実で賢い犬派であった。




先日、庭園巡り趣味に一環で浜離宮恩賜庭園に行ったのだが、
猫を見た。
あの都立の庭園、しかも芝離宮とは比べ物にならないくらい大きな庭園を
いかにも「我のものである」というように猫は散歩していた。
中には日向ぼっこをしているものもいた。


私はそのとき、やっぱり猫は俺様志向だ、嫌いだ、と確信した。
人間が「立ち入り禁止」と書いてあって入れない中に
自分は入れるぜ、糞もできるぜ、というやつはいらっとする。


しかし「嫌い」という感情の中には必ず「嫉妬」という感情が隠れている。
猫に対して私は嫉妬しているのか。


「猫」という存在に嫉妬したわけではないことに留意したい。
いや、もしかしたら猫のように生きたいと考える日が来るかもしれないが、
今はまだ人間でよいと思っている。


では何に嫉妬したのか。
それは猫の自由さだと思った。




私の観察した猫の行動というのは、一見無礼な行動である。
しかし
無礼さと自由さというものは表裏一体だ。


その行動の仕方次第で捉え方が変わってくる。
周りの目を気にしない、他人の評価を気にしない
こんな自由さを持っている人を尊敬する。


そしてその行動が無礼なものに見えないように小さな配慮をしている、
そんな自由人を尊敬する。


「集団行動」が大好きな日本社会の中でこんな人はたくさんはいない。
ただひとつ、自由を手に入れる方法としては
まず無礼なことをしてみる。
無礼なことをしても可愛さで許されるような猫の能力を手に入れる。
無礼ではなくて自由であることを主張する。


しかし、自由であることを他人に示すようでは、やはり人の目を気にしている。
結局自由ではない。
無礼と自由。
猫を少し尊敬し始めた。















2012年6月27日水曜日


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亀が太陽に向かって首をのばしていた。私と同じように日焼けをしたいのだろうと思った。
亀と同じことをしているはずなのに、なんだか亀とは違う時間を生きているように感じた。

亀の寿命は平均20ー30年。長い亀では170年くらい生きる物もいる。
長寿の亀の秘密はきっとその亀ののんびりさとマイペースさだろう。

「ゆとり」という言葉が流行した時期がある。
人間のいうこの「ゆとり」は、亀の生き方のようなものをさすのだろうか。

人間のいう「ゆとり」には対照に「忙しさ」というものがあり、それをさけるため、または脱却するために
反語として使われている言葉だ。これは、亀と人間のゆとりのあり方の大きな違いだ。
なぜなら亀は、ゆとりのある生活しか送ったことがなく、彼は自らの生活がゆとりのある生活だなんて
思っていないからだ。
だから亀と同じ行動をしていても、同じ空気が私と亀の間には流れていて
いかにも異なる空間を生きているように感じたのだ。

だからといって、人間も亀のように忙しさなんて存在していたことさえ忘れて、ゆとりのある生活を送ろう!
といっているわけではない。
人間は、ゆとりと忙しさという二つの相反する生活方法を知っている。
だからこそ、ゆとりの大切さを知ることができるというポジティブな面もある。

しかし、亀の生活の方が我々の「ゆとり」ある生活よりも素敵なものに見えてしまうのは、
いかに我々人間が純粋なゆとりのある生活をしようとしても、
この純粋にゆとりのある生活を手に入れられるのは限られた人間であり、他の人はただ「ゆとり」ある生活をしているフリをしているだけであるからだ。

「ゆとり」を持つということに罪悪感を抱いたことはないだろうか。
いつも何かやることがあるのに、その時間を割いて「ゆとり」の為に時間を使ってしまい後から後悔したり。
周りの空気が「ゆとりを持とう!」となっているから、
触発されて「ゆとり」に興味を持ってぼーっとしてみたが、なんか何もゆとりを持てずに終わってしまったり。


これは全部純粋なゆとりではなくて「ゆとりのフリ」だ。
私もこのゆとりのフリをしてきたことが何度もある。
亀の長寿の秘訣は、のんびりさとマイペースさだ。
このマイペースさが私には欠けていた。

純粋なゆとりを手に入れた今、もう一度亀を見に行った。
亀はまた日焼けをしていた。
私もそれに習った。
同じ時を過ごしているように感じたが、友達の時計を見るそぶりとともに
やっぱり異質な空間にいることを知らされた。

亀と一緒に日を見て思う。
人間は普通の亀より長生きするのに、なぜこうもせかせかしているのだろう。
亀の生き方を、時間を知ってしまった人間は誰もまねできないだろうのか。


2012年6月24日日曜日

旧芝離宮恩賜庭園

旧芝離宮恩賜庭園


小石川後楽園と共に、今東京に残る江戸初期の大名庭園の一つです。回遊式泉水庭園の特徴をよくあらわした庭園で、池を中心とした庭園の区画や石の配置は、非常に優れています。
 明暦(1655~1658年)の頃に海面を埋め立てた土地を、延宝6年(1678年)に老中・大久保忠朝が4代将軍家綱から拝領しました。
 忠朝は屋敷を建てるにあたり、藩地の小田原から庭師を呼び庭園を造ったと言われています。庭園は「楽壽園」と呼ばれていました。

庭園は、幾人かの所有者を経たのち、幕末頃は紀州徳川家の芝御屋敷となりました。明治4年には有栖川宮家の所有となり、同8年に宮内省が買上げ、翌9年に芝離宮となりました。離宮は、大正12年の関東大震災の際に建物や樹木に大変な被害を受けました。
 翌年の大正13年1月には、皇太子(昭和天皇)のご成婚記念として東京市に下賜され、園地の復旧と整備を施し、同年4月に一般公開しました。また、昭和54年6月には、文化財保護法による国の「名勝」に指定されました。



(東京都公園協会より引用)


梅雨の時期の晴れた土曜日。混んでいる電車から浜松町へおりて庭園に入る。iPodとサングラスをとり静寂の中に突入する。庭園にはほとんど人がいない。安心した反面、少し寂しくもなる。
東京のオフィス街にあるとは思えないほどの大きさで、ひっそり、しかし荘厳に構える庭園。


写真を撮るときに気づいたのは、後ろの大きなビル群だ。
その庭園の存在の仕方が今の日本のあるべき姿を映し出しているようであった。
古き良きものを温存しながら、新しい物を取り入れる。この古いものと新しいもののコントラストによって、また新しい風景を手に入れる。


戦後日本が行ってきたことは、私は間違っていないと思う。
ただ、最近感じることは、日本は新しいもの、西洋のものを取り入れようとしすぎて
古き良きものを捨ててしまっているのではないかということだ。
それは西洋と日本の対比だけではない。
アナログとデジタルの対比でもあるのだ。


ディズニーランドに象徴されるように、完璧な世界を作り上げ、外の背景を全て切り取ってしまうのではなく、外の風景も背景として取り入れる。そして自分が持っているものを融合させる。
それが島の国日本だからできることで、日本の想像力の源泉なのではないだろうか。


右翼ではないが、日本には日本の良さがあるということは誰も日本人が認識していることだ。
だから西洋の良さと日本の良さを組み合わせる。
伝統的なものと新しく開発された物を組み合わせる。


庭園のように、美しい庭園の上には壮大に存在するビル群。この一見奇妙に思えるような風景が、今の日本で重要視されるべきではないのか。


たまたまラストサムライを見て、思わず感動してしまった。
その中の台詞の一つ。
we cannot forget who we are and where we come from.


もしかしたら客観的に日本を見る人には、
何が日本に今必要なのかがわかっているのかもしれない。










雀が水を飲み、飛び立つ姿。
鯉が食べものを待ち、口をぱくぱくする。
人が風景のきれいさに息をのむ姿。


東京で何度この風景を見ただろう。
庭園は、東京の真ん中に何個も存在する。


庭園めぐり。
古き良きものを知りたい時も、自分を考える時間として物思いにふけるときも
ぜひ庭園に行ってみてもらいたい。