2012年7月4日水曜日

アクセサリー

アクセサリー

     装飾品。衣服を引き立てるための装身具の類。ブローチやネックレスなど。
     機械類の本体以外の付属品。または別売りの関連商品。「カー―」
    (goo辞書)

日本とは不思議な国である。
大学に行けば、皆がヴィトンのバッグを持って
新宿に行けば、そこでも皆がヴィトンのバッグを持って
年齢も所得も何も関係なく、皆がブランドバックを持っている。

こんな国は日本だけだ。

欧州ではこんなことはあり得ない。
しっかりとした階級制度が根付いていて
ブランドのものを持っている人は決まっている。
彼らにとってブランドはシンボルであり、自分の社会的地位を示すものである。

日本でもブランドはシンボルかもしれない、
しかし、自分の育ちや昔の階級を示すものではない。
だからヴィトンの50%の売上は日本人が占めているのだ。




アクセサリーとは、装飾品だ。体という本体の付属品である。
非自分のものをなぜわざわざ人々は体につけるのだろう。

アクセサリーは自分を良く見せる。
きれいに見せる。
昔流行った本のように「人は見た目で9割決まる」のだ。

しかしそこに虚無感はないのだろうか。
一つは、アクセサリーを全て取り去ったときに残るのが本当の自分だということ。
もう一つは、アクセサリーはお金さえあれば手に入ってしまうということだ。

前者は気づいている人がいるかもしれない。
しかし大きな問題は後者だ。

アクセサリーは自分をよく見せるかもしれないが、
それはお金さえあれば手に入る。
自分だけが手に入れることのできるものではない。

確かに努力をしてお金を貯めてやっと手に入れることは虚無感は感じないかもしれない。
しかし、一生懸命貯めたお金を、誰でも買えるようなものに投資するのか。

この二つの虚無感は、
どちらもアクセサリーによって自らを奴隷化していることから始まっているのではないか。

人間は自分で自分の価値を最終的には見つける。
しかし、どんな価値を見つけたとしても
それは値段以上のものだ。

アクセサリーをつけ、それを見せびらかしたときから
それは自らに値段を付けていることになる。

これはアクセサリーという物理的なものだけではない。
学歴、就職先、年収、肩書きも全てアクセサリーだ。

アクセサリーが全て悪い訳ではない。
私もいくつもつけている。

しかし、それはアクセサリーをつけることによって
「姿勢が変わる」ということを求めているからである。
母親にもらった指輪をつけることで
「頑張る」ことを忘れないためだ。

少なくともそう願いたい。
アクセサリーから自由でありたい。
自分というブランドを作ろう。

日本人はせっかく誰でもがブランドを身につけられる。
「自分」というブランドを身につけよう。


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